季節外れな話になりますが、
「秋茄子(あきなす)は嫁に食わすな」
ということわざがあります。
秋ナスは夏ナスに比べて香りがよく、皮も薄く、旨みが強いため、特に美味しいと言われていることからくるこのことわざは、
美味しい秋ナスを嫁に食わせたくないという意地悪なお姑さんの嫁いびり、という解釈が有名だと思いますが、
- ナスは体を冷やすため、涼しくなってきた秋に茄子を食べると、大切な嫁の身体を冷やしてしまう」という嫁の身体を気遣ったもの
- ナスは種子が少ない野菜のため、子どもができにくくなるといけないと案じて食べさせないというげん担ぎ
といった解釈もあると、ある人が教えてくれました。
嫁いびりと嫁思い、正反対の解釈が存在するこのことわざは、聞いた人の解釈しだいでよく取るか悪くとるか、全く違う反応になります。
日常にもある「秋ナス」的すれ違い
しかしよく考えてみると、こういうことは私たちの生活の中にも、まま見受けられます。
私自身を振り返ってみると、良かれと思って言ったことなのに相手が不快な反応を示し後悔したことがあります。また反対に、人に言われたことを「今のは良い意味なのか? 悪い意味なのか?」と疑ったり、人の忠告に腹を立てたこともあります。
これもまた、言った側と言われた側の解釈の違いといえます。
2024年には「不適切にもほどがある」という昭和と現代の価値観の違いをテーマにしたドラマが流行し、「ふてほど」が年間の流行語大賞になりましたが、世代によっても言葉の解釈は違います。
特に、今辛い思いをしている人への言葉はよく考えねばなりません。
相手に不快な思いをさせないよう、言葉には気をつけなければいけないと、つくづく感じる昨今です。

「喜びの理」を仕分ける。
加えて自分は良い方向に受け取って、心明るく暮らしたいものです。
この方法のヒントになるものが、天理教の教えの一番根っこにある、
私たち人間は神様によって作られ、この体は神様からお借りしているもの
という「かしもの・かりもの」の教えのなかに隠されています。
目・耳・鼻の使い方
「かしもの・かりもの」について言った先人の教えに、このようなものがあります。
目はものを見て喜ぶためにつけてある。
耳は物を聞いて喜ぶためにつけてある。
鼻はものを嗅いで喜ぶためにつけてある。
と神様は仰る。
目も耳も鼻も二つずつあって一つの働きや。二つあるのは仕分けが大切との思し召しからや。
目は物を見てその中から喜びの理を見分けますのや。
耳は物を聞いてその中から喜びの理を聞き分けますのや。
鼻は物を嗅いでその中から喜びの理を嗅ぎ分けますのや。
秋ナスのことわざのように、物事は受け取り方次第で良いものにも悪いものにもなりますが、この言葉のように、五感で感じるものを仕分けて、その中から良いものを見つけ出す。
これが神様が目・耳・鼻を作った時に込めた思いです。
秋ナスのことわざなら、「お義母さんは、私の体を案じて言ってくれたんやなあ」と、喜びの意味を見出して受け止める、ということでしょう。
口の使い方
この先人の言葉には続きがあります。
ただ、口は一つしかないによって、人を勇ませ楽しませ、人を助ける真実のことを一つ言えばそれで良いのや。人のことを悪く言ってはいけません。もし分けたらどうなります? 言い訳になりますがな、言い訳を言うとカスが残りますで。
目や耳や鼻と違い、口は発信する(伝える)働きという点で3つの器官とは異なります。
だから、分けるのではなく相手をたすける言葉だけを発信する。相手がどう受け止めるかは相手次第ですが、口を使う時は、このような思いが大切だということですね。
今ではLINEでコミュニケーションをとることも増えていますが、これもまた同じです。

「喜びの理」を見つけよう!
神様は「人間が互いにたすけ合って陽気に暮らす様を見たい」という目的のもと人間を作られたことから、そのように使わせてもらうことが理に適っている使い方で、十分満足に、そして幸せに生きることができます。
秋ナスは嫁に食わすなということわざを作った人の最初の意味は、もしかするとお姑さんの意地悪な気持ちからくる「嫁いびり」だったのかもしれません。しかし、受け手が「喜びの理」にして受け取ることができれば、それは良い言葉になり、相手を嫁思いの優しいお姑さんに変えることすらできます。
なにより、親神様の望まれる体の使い方・心の使い方をする姿に、幸せはどんどん集まってくることでしょう。
もし今日食卓にナスが出てきたら、こんな話題をみんなで話し合ってみてはいかがでしょうか?
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